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WINDOW(財)高知県交流協会
2001 世界の笑顔あつまれ
Autumn No.30


〈特集〉
インドシナ・スタディツアー
    〜初めてのタイ・ラオス〜

「今も続く生徒との交流」
  元京城舞鶴高等女学校教諭 池田 照子
「東南アジア青年の船」
        参加青年来高

子どもアジア文化体験
       韓国派遣団2001

民間国際交流団体紹介
 「国際理解の風を創る会」
Letters from Abroad
  吉田 進 (パナマ)
  團野 哲也(ジョルダン)    


(写真)ラオスの子どもたちと交流する葉山村立葉山中学生


「今も続く教え子との交流」

     元京城舞鶴高等女学校教諭 池田 照子


 高知市在住の池田さんは、女学校卒業まで満州、京城(現韓国ソウル)で過ごされ、名古屋の専門学校で教員免許取得後、1940年から1945年まで京城舞鶴高等女学校で教鞭を執られました。日本人と韓国人がともに学んだ同校の存在を後世に伝えたいと、ご高齢にもかかわらず、今もご活躍されています。
鶴女子高校創立60周年記念式典、国歌斉唱   


舞鶴女子高校劉永粉校長
と池田さん(箱根にて)
「京城舞鶴高等女学校」創立
 韓国が日本の植民地だった1940年4月20日、「京城舞鶴高等女学校」は京城(現韓国ソウル)の地に開校されました。この女学校は当時の朝鮮総督府によって創立され、日本人と韓国人の女生徒半々ずつが共に机を並べ、日本の生活や習慣を身につけることを大きな目標に全て日本語による授業が行われました。私は名古屋の専門学校卒業後、一年間、母校で助手兼教諭を勤めたのち、卒業した京城の女学校の恩師の推薦で開校当初唯一の女性教諭として、この学校に赴任することになったのです。

温かい交流をはぐくんだ「学友制度」
 この女学校の校風の柱となったのが「学友制度」です。これは、日本人、韓国人各1名でペアをつくり、学校生活はもちろん、全ての行動を二人三脚で行うというものです。学校でも一緒、遊びに行くにも一緒で常に協力し合って学校生活を送った生徒の間には温かい友情が生まれ、約60年たった今でもその交流は続いています。
 1期生が4年生になったころ、釜山近くの鎮海にある海軍施設部から女子軍属として働いてもらいたいという要望がありました。生々しい戦況を話す海軍中尉の真剣な態度に感動した女生徒たちは、日本人、韓国人関係なく「私を行かせてください」と自ら手を挙げ、あげくの果てには小指の先を切って血書嘆願という事態にまで至りました。

1945年8月15日終戦
 敗戦の影が色濃くなった1944年3月、植民地政策中心のやり方が行き過ぎているとの批判を受けた初代校長は平壌に転任されました。私は、その後赴任された校長の方針についていけず、翌年、結婚を機に学校を退職。その2ヵ月後、日本は終戦を迎えたのです。
 終戦の混乱の中で、学校がどのように整理されたかは私には定かではありませんが、在校生の記録では、10月より校名もそのままに「舞鶴女子高校」として出発したと報じられています。植民地時代、韓国の人々に日本語を強要し、「創氏改名(日本の名字に変えさせる)」を命じ、毎日「私は日本の国民であります」と斉唱させていた日本。その日本が創った学校を名前も変えずに残してくれたのです。そして、数々の優秀な人材を輩出し名門校となった「舞鶴女子高校」は、2000年4月20日、植民地時代から数えて60周年を迎えました。

舞鶴女子高校創立60周年記念式典
 2000年1月末、私のもとに1通の案内状が届きました。「舞鶴女子高校創立60周年記念式典」の案内状です。私は杖がなくては歩けない体になっていましたが、何が何でもこのご厚意に報いたいと一大決心を決め、日本人卒業生とともに韓国ソウルへ向かいました。
 記念式典当日、校庭には全校生徒、同窓生、父兄その他2,000人を越える人々が集まり、私たち日本人一行を大きな拍手で迎えてくれました。学校長の式辞、ソウル市教育監の祝辞に続いて「日本人恩師祝辞、開校当時本校在職池田先生」の声が響きました。私は手も声も震える中、やっとのことで挨拶をすることができました。
 祝辞に続いて行われたのが名誉卒業証書及びメダルの授与です。日本の敗戦により卒業できないまま帰国した日本人女性16名(92名中、16名が記念式典に参列)に半世紀ぶりに卒業証書が渡されたのです。

今も届く生徒からの便り
 「先生はこわかった。厳しかった」と当時の生徒によく言われます。しかし、彼女たちは「正しさ、強さ、まじめさ、優しさ、素直さ」を日々の生活目標に一生懸命励んでくれました。教え子から届く便りを読むと、その時の教えが彼女たちの心にしっかり残っていることがよくわかります。
 第1期生はソウルで月に一度集まっています。海を越えて日本で、韓国で同窓会も開かれます。「学友」としての交わりがあったからこそ、人と人の交流があったからこそ、植民地時代を乗り越えた付き合いが今も続いているのです。



池田先生

 今日は先生にお願いがあってお便りしました。以前、先生が「まじめに、強く、正しく、優しく、素直に人生をまっとうしませう」と書いて送ってくださった年賀状。私はこれをテレビの上に置いて毎日読んでいました。私はこういう教えの先生に学んで、あらゆる方に認められたのを誇って暮らしていたのですが、実は、この年賀状をある方が持っていってしまいました。
 先生、葉書にもう一度教えの文を書いて送ってくださらないでしょうか。今なお、私を教えて下さる人はこの世には一人もいません。
  先生にお会いできる日を、心から楽しみにしています。
2001年8月14日 第1期生 鄭 在英


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