「訪中団に参加して」 澤本 末雄
高知市蕪湖市友好都市提携15周年記念高知市民親善訪問団と共に、私たち一行19名は鄭州、嵩山、洛陽の河南省の名所や遺跡を見学して廻った。特に印象に残っているのは、嵩山少林寺周辺にある多くの学校で、生徒が拳法を習っていた姿だ。
また、歴代の王朝の都、洛陽の龍門石窟の規模の大きさやその多さには、さすがに歴史が古く人口の多い大国、中国を思わずにはいられなかった。
今回で私の訪中も10回目を数えたが、何度訪れても日本人と顔立ちがそっくりで生活様式も似ており、漢字という偉大な共通点がある中国人や中国に対して親近感を持たずにはいられない。
私は農家であるので、いつも特に農村を中心に見ている。その度に思うのは、都市への投資が精一杯で農村が取り残されているのではないかということだ。
ソ連の崩壊によって、これからは米中時代になると言われているが、中国と友好を深めることは日本の国益にもつながると思う。これからも日中友好親善のために、できる限り訪中したいと思っている。
「蕪湖市との交流と経済開発区」 山崎 博司
私が蕪湖市交流15周年のツアーに参加したのには、私なりに理由が2つあった。
6年前に締結された安徽省との締結話がインドネシアとの経済交流と平行してあり、当時、県の所管課長をして、一端の責務も感じていたことである。
また、ようやく高知県と安徽省との友好提携が締結された平成6年に経済開発区で操業開始された穂岐山刃物が、その7年前にインドネシアへの進出を計画、私も団長として同行、覚書まで交換して進出一歩手前まで漕ぎつけながら地元業界の声に潰され、この蕪湖市に切り替えたことの選択の成否を見届けることであった。
県が作った省との交流計画には、ただ一行「1985年安徽省経済貿易視察団(7名)来高」とあるだけであるが、実はこのときの安徽省の熱意にはすさまじいものがあった。
当時、安徽省の書記は、党の20人の書記の一人とも言われ知事以上の権力をもっており、直々に来県したのは是非締結して帰るとの意気込みがあったからである。しかし、当時はまだ交流の在り方も模索中であり、県の上層部にも時期尚早との空気が強く、即締結話にならぬよう気を使ったものである。
さて経済開発区の穂岐山は従業員も100人、ようやく成功の目処もたったとのことで、安堵の胸を撫で下ろした。インドネシアではさらなる苦労が続いたことであろう。
「鄭州行き車中にて」 宮田 稔
南京駅に着いた。今回のツアーのハイライトである鄭州行き11時間の列車の旅が始まる。
私たち夫婦に渡された切符は、中国人との合い部屋、しかも定員4人のコンパートメントの上段ベッドである。ドアを思い切って開けた。先客の2人と視線が合った。そこには2人の中年の女性が座っていた。今までの不安が一瞬にして消えた。とたんに新たな心配事が生れた。私が知っている中国語はたった2つ、「こんにちは」と「ありがとう」だけである。これからの11時間、彼女たちとどのように過ごせばよいか。
思い切って英語で「英語が話せますか」と2人に問いかけた。知的な方の女性から「少しだけ」との返事が返ってきた。カタコト英語でとおり一遍の会話をし、一段落したところで時計を見た。まだ30分しか経っていない。沈黙が続く。
私たちのツアーの目的は一般の人たちとの交流である。またとないチャンス、会話を途絶えないために一つの話題を投げかけた。「私の妻は大連で生まれた。」
一呼吸おいて彼女たちは妻に向かって「あなたは中国で生まれたのか、中国語が話せるのか」と問いかけた。「3歳までしか大連にいなかったので中国語は話せない」と代わって私が答えた。妻が大連生まれとわかってコンパートメント内は和やかな雰囲気に変わった。お互い名刺交換をした。2人は大原市にある出版社に勤務している「白玉さん」と「水涓さん」である。
妻と彼女たちとの筆談による会話が始まる。妻は市民交流のためと持ってきた押し花を彼女たちに教え、はがきを二枚ずつ仕上げた。
車窓からの景色を見ることなく11時間の時が経過した。大原での再会を約束して鄭州の夜のプラットホームに降り立った。
「鄭州市に旅して」 宇賀 豊
南京駅11時6分発429号軟座寝台8号車に乗車する。車窓に移り変わる田園風景を眺めながら、各部屋では早くも宴会が始まっている。昼食、夕食とも食堂車で取り、同乗していた中国美人ともお別れして21時25分、鄭州駅に到着する。
翌日、早速河南省博物館を見学に行く。入った正面に「河南古代文化之光」の大文字が見える。ここは約3,500年前の商代遺跡址から発掘された中国最古の貴重な出土品が展示さている。一階から順次、出土品を見て廻る。圧巻は一階ホールで開かれた古代楽器による演奏である。古代民族衣装を着けた八人の奏者が奏でる妙なる演奏、正面につるされた大小26個の金器から出る爽やかな音色は、オーケストラにはない良く通る音である。ホール一杯に集まった観客に感銘を与える何千年も前に、このように利用されたかどうかは疑問であるが、これを現代に生かした中国人の智恵には感心させられる。将に「古代文化之光」だ。
また、何千年も前に出土した人形を見ると、その表情のふくよかなこと。当時の衣装のしなやかさは、現代の精巧な精密機械では作り出せない深みがある。出土した壁面彫刻に出る馬車の様子などもただただ感心するばかりである。北京台地にある故宮博物館にない個性溢れる展示品である。
続いて商代城址を見る。城壁というと煉瓦を積み重ねて市街を守る形式が一般的であるが、ここの城址は堤防といった方が良いようだ。街を外敵から守るよりも、黄河の洪水被害から市街、田畑を守ったようである。その断面を見ると、補強に補強を重ね、多くの人民が動因されてトロッコで土を運び、足で踏み固めた様子が伺える。現在は一部のみしか見えないが、整備計画が進行し、付近の住宅を撤去してその規模が姿を現したときは、壮観なことだろう。その時点でもう一度見学に行きたいものである。
長時間かけて鄭州まで来た甲斐があったというものだ。
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