ニーハオ安徽 2004年2月発行 第19号 P1 P2 P3 P4 P5


悠久の中国の旅は安徽に入り安徽に帰る

2000年前の皇帝文化は西安に 1000年前の皇帝文化は北京にあり
そして2000年の中国庶民文化は今も安徽に生き続けている

今回、長期休暇を利用して中国安徽省を旅行した方々『遊游皖南取材班』の皆さんから写真や記事を提供して頂きました。

2003年12月23日(火)〜2004年1月4日(日)
西寧→安徽省合肥→石台→九華山→黄山→屯渓(西逓/宏村)→上海



「中国の田舎で出会った『意欲』と『心』」

 12月23日、上海を経て厳寒の青海省西寧市に着いた。翌朝、中国六大チベット寺院タール寺を拝観後、216人の回族の子どもたちが学ぶ下峡門小学校を訪れた。青空に広がる野菜畑の向こうに突然校舎が現れ、「熱烈歓迎」の声が聞こえてきた。残雪と寒風の中僕たちをを待っていてくれたのだ。

 学校は砂と土の大地に一戸建てより少し大きいアパートのような建物と中庭があるだけ。子どもたちの教材も教科書だけという、かなり厳しい教育環境だ。でも先生について大声で教科書を読む姿は、何とも健気で、母は「意地らしいねえ」って感心していた。

 それにしても集まった村民は多かった。一体どこに住んでいるのだろう?

 つぎに馬場民族小学校を訪問した。今度は362人のチベット族の子どもたちが学ぶ民族学校である。8年前までは漢語とチベット語のバイリンガル教育が行われていたそうだ。少数民族言語が消えて行く学校と村を目にして、複雑な気持ちになってしまった。

 10kmも離れてないのに、二つの村では民族がまったく違う。よく見れば子どもたちの顔も。宗教や生活習慣が同じ者同士が片寄せあって暮らすほうが何かと便利で幸せだということだ。

 今回は、高知のNGOから両校に児童図書が寄贈された。西寧市少年宮児童図書中心で人気のグリム童話やアンデルセン童話もあった。僕は絵本を手にして思いっきり輝く瞳をはじめて見た。『読書』という新しい文化の誕生を皆で喜び合った。

 二つの学校にはコンピュータがなかった。吃驚するほど元気な声で出迎えてくれた子どもたちは、広場や中庭で無邪気に遊んでいた。帰り道、お互いに大きく手をふって別れた。

 12月26日、安徽省に着いた。南に来たと感じた。翌朝、南部の石台を目指す。そこは同行したN先生が、親切な農民と文化大革命を過ごした思い出の地である。お昼に石台に入ったが青海省とは気温や自然が全く違い豊富な水と緑に囲まれていた。『懐かしい』という言葉が似合う風景が広がり、高知の田舎と錯覚してしまった。

 N先生の案内で、山の中の光小学校を訪問した。郷愁の思いにかられた父は、コンクリート造りの卓球台で子どもたちと卓球を楽しんでいた。結果は惨敗だったが、楽しそうに遊んでいる姿は僕の目にもとても微笑ましく映った。

 この4日間で環境の全く違う小学校を訪問して多くのことを学んだ。何より子どもたちの目が生き生きとしていた。手垢で汚れてボロボロになった教科書を手に持ち、みんな誰よりも大きい声で朗読していたことに感動した。

 最近僕が忘れていた、学ぼうとする『意欲』を思い起こすことができたし、豊かさとは物質的なものだけではなく、より価値のある精神的なものもあると感じた。

 『心』が豊であるということが人として最も大切なことだと思っている。

(高知追手前高等学校 2年 北村 太郎)

   
下峡門小学校に図書を寄贈   誰の声が一番大きいかな?:馬場民族小学校   お父さんは負けてないぞ!

 

<蓬莱仙境風景区>

 12月27日、合肥から石台に向かう。石台と言えば、蓬莱洞、慈雲洞、黄崖大峡谷、秋浦河漂流を観光資源とする蓬莱仙境風景区が有名だ。外国人観光客は?見かけない。目玉の蓬莱洞は安徽省では太極洞につぐ大型の鍾乳洞で、年間入場者は20数万人にも上る。

 周囲には、龍河洞級の鍾乳洞は無数にあるが、観光地には入らないそうだ。桂林の蘆笛岩でも同じことを聞いたが、土佐人としては龍河洞の風情も評価してほしいと思う。ともかく中国の鍾乳洞はデカイ。そして電飾がネオンのように艶やかだ。これはもう文化の違いである。日中では『食』文化も違うが『色』文化も違う。

 途中、パイプのような鍾乳石を発見した。眺めるだけかと思ったら、実際に鍾乳石を叩いて音色を確かめるのだそうだ。何本かはポッキリ折れている。聞けば、それは自然の成り行きだとか。うーん、これも『触』文化の違いなのか?

 翌朝、黄崖大峡谷を見学した。冬季の渇水期ということもあり峡谷や瀑布の水量も少なかった。安徽つつじや蘭花の季節に来ればいいかも・・、と思いつつ、40元のチケットを見ながら、ここに来た日本人も少ないだろうが、これから来る日本人もきっと少ないだろう、と思った。

 とは言いつつも、私は中国の大鍾乳洞や穴場観光地のファンである。新天地に行けば、必ず「近くに鍾乳洞はある?」と問う。そして私の旅は続くのだ。そう黄崖大峡谷の青龍潭も最高に澄んでいた。さがし求めた「愛の泉」を発見したようだ。

 ともあれ安徽省訪問20数回にして新発見したマニア好みの観光スポットである。

(前田 正也)

     
中国の『色』文化を実感   虫歯のようになった鍾乳石    

 

<地蔵信仰の聖地九華山>

 12月28日、石台から九華山に入る。九華山は地蔵信仰の聖地として、五台山、峨眉山、普陀山とともに中国仏教四大名山の一つに数えられ、主峰である十王峰(1342m)をはじめ天台峰、蓮花峰、天柱峰など99の峰峰が連なる。唐代の詩人李白が「遥かに九華峰を望む」と詠ったことから九華山と呼ばれるようになった。

 山内には新旧約80の仏閣が立つ。唐代に渡来した新羅の王族金喬覚が781年に最初の寺として化城寺を開いたのが仏教信仰の始まり。金喬覚は苦行のすえ成仏し、地蔵菩薩の再来と崇められた。近くには遺骨を納めた月身宝殿(肉身殿)が建てられている。 5年ぶりの九華山だが、新築の3星ホテルや中国最新のケーブルカーまで完備し、あのころの面影は消えつつあった。

 昼食後、ホテルから歩いて山内最大の寺である祇園寺を見学した。3体の大仏を拝んで宿坊へ。一汁一菜の素食と戒律をまもる僧侶たち。信仰とは正に精進することだと、学ばせていただいた。

 翌朝、残雪と氷柱を眼下にロープウエイで大雄殿を目指す。その昔、旅人は7時間かけて黙々と石段を登った。ガイドは、後任がいない一番辛い旅行業だとも言われた。5年前、大雄殿での勤行を写真展で初めて紹介したが、今日は、瞼の奥にあの日の思い出を『香』で包んだ。

 山頂から望む360度の絶景と爽風の味は、大雄殿からの石段を数えた者へのご褒美である。感謝と幸せを噛みしめて、一路、摩空嶺を目指した。

 文明の力、好きな言葉だ。今日は素直にケーブルカーに乗ろう。行きも帰りも。中国経済への貢献か、最新機材の視察か?遥か山上には、100歳余まで生きた無瑕禅師を祭った百歳宮が断崖にへばりつくように立っている。即身仏となった無瑕禅師は金箔で覆われた木乃伊となり、迷える衆生を無数の蝋燭の灯とともに照らしていた。

 九華山の魅力は、『秀麗』という二文字でよく表される。でも私には、その秀麗の真の花は、峯峯の谷間に静かに咲いているように感じられる。そこには尼僧をふくむ修業僧の里があり、戒律という四季の中で蓮の花が咲いているからである。

(前田 正也)   

   
『放生池』亀や魚を買って自然に返す   月身宝殿   秀麗九華山

 




     黄山絶景 排雲亭を下る新ルートを遥かに望む


     念願の飛来石に立つ

世界遺産  黄 山

すべて人力によって守られている黄山
これからも大自然と人が一つとなって世界遺産に恥じない世界遺産として
後世にその魅力を余すことなく伝えていくことだろう
悠久の神々の指紋は カメラの被写体として観賞するより自分の目と足で観るのがいい
黄山とは そういう魅惑の名山だと思っている

 12月30日、真っ青い大空を見上げながら、アジア最長のロープウエイで一気に1050m上がった。新しく開放された黄山最後の絶景といわれる排雲亭からのコースを10分下る。突然、立ち入り禁止の柵に阻まれた。事前情報では12月も開放されていたのに・・。出鼻を挫かれたが、すぐ気をとり直した。中国旅行ではよくあることだと。

 黄山は、1990年に自然と文化の複合遺産としてユネスコの世界遺産に登録された。奇松、奇岩、雲海、温泉が有名で、最高峰蓮花峰(1864m)を筆頭に光明頂(1840m)、天都峰(1810m)と剣山が続く。元名は山。72峰の連山からなる岩山群で、その名のとおり『黒』岩が『多』い。黄山の『黄』は皇帝を意味し、かつては皇帝だけが入山を許されたほどの名山である。

 「歩きながら写真を撮ってはいけない」「ゴミを捨ててはいけない」「タバコを吸ってはいけない(喫煙エリアでは可)」というのが黄山散策の『掟』だが、「無理をしてはいけない」「遭難してはいけない」「はぐれてはいけない」というのが、自戒の言だ。

 ベテランガイドも未知の世界という、獅林賓館から光明頂をへて蓮花峰を登頂し玉屏楼から往復する、という難コースに挑戦したのは同行した北村家4人と指南役のM氏であった。結局、ベテランガイドを筋肉痛にさせてしまったが、5人は気力十分だった。

 12月31日、行く年最後のご来光と夕日は、目にしみるように美しく感動的だった。この時期、黄山には観光客はほとんどいない。絶景空間のハイライトである飛来石(どこからか飛んできて鎮座した奇岩)に立つのは私たちだけ。何とも豪華な旅だ。

 黄山といえば奇松である。連結松(夫婦松)、黒虎松、龍爪松、団結松を納得しながら眺めた。たしかに松も偉いが、名前をつけた人はもっと偉い。

 世界で最も贅沢なホテル?今は黄山山頂のホテルだと答えるだろう。山頂のホテルで消費される飲食物や洗濯物は、すべて麓から担ぎ上げられ、また下ろされる。帰りのロープウエイの下を延々と伸びる石段は、60kgの荷物を5〜6時間かけて運ぶ『苦力』たちの生活道でもあった。

(中内 新子)

 

<安徽古民居群/西逓、宏村>

 1999年、世界初の民居として世界遺産に登録された西逓と宏村。明清代の440にものぼる古民居群は、布石の技、構造の巧、装飾の美、建造の精を今に伝えている。

 2004年元旦、黄山を下って西逓を訪れ、明代荊藩の首相胡文光(西逓人)の功徳牌楼である膠州刺史(西逓牌楼)をくぐる。1578年に建造された明代徽派の石坊代表作であるが、文化大革命で破壊されるまでは他にも14作品があったという。幾分観光地化されているのか狭く入り組んだ路地を入ると、こじんまりとした土産物屋が軒を並べている。ふと立ち寄った雑貨屋で黄山のカラー写真集を108元で手に入れた。ホクホクのサツマイモと甘藷を数元で買ったが、懐かしい味がした。

 中国で一番野菜が美味しいと評判のレストランで昼食をとって宏村に向かった。宏村は南宋時代に誕生し約800年の歴史がある。この村は鳥瞰すれば『牛』型をしているという。立派な牛角(古木2本)や太腿(小川にかかる4本の橋)、胃袋(人口湖である南湖)、小腸(曲がりくねった用水路)を見ながら「ふーん、なるほど」と頷いた。

 村内用水は朝8時までは飲料水に、それ以降は洗濯などの生活用水に使われているそうだ。今は午後3時そういえばさっき魚をさばいている村民も見かけた。

 さて宏村といえば承志堂である。清代の塩問屋汪定貴の家で、煉瓦と木の構造建築だ。大広間の横梁、斗拱、花門、格子の木彫細工が徽派建築の粋であり、中央の置時計と両側の花瓶、鏡が終生家内安泰を象徴する。(中国語音では、『鐘』=終、『瓶』=平、『鏡』=静となり終生平静を意味する。)

 アヘン吸引部屋や麻雀部屋を見学した後、三角形の空スペースを利用して間取りをしたという使用人部屋にとおされた。見れば、ここに座れば誰でも美人に見えるという曲線型背もたれの椅子。「どれどれ」と素直に座して1枚撮った。

 両村とも世界遺産に登録されてからはずいぶん観光化がすすんだという。帰り道、そんな宏村の前をポコポコ歩く荷馬車に思わず安堵感を覚えた。しばし池に映し出された宏村の陰影にカメラを向けて、静かに揺れる宏村の今昔をおさめ、屯渓へと向かった。

(松岡 杏奈)

   
世界遺産宏村に入る   宏村散策   世界遺産西逓の古民家

 

<上海不夜城>

 この10年で上海には超高層ビルが2000本も出現した。今の上海を象徴する言葉だ。アジア一高い東方明珠塔(468m)の最上展望台(350m)の眼下には、人類史上最速の発展を遂げた国際都市上海のパノラマを見ることができる。

 上海で一押しの観光スポットは?今は明珠塔階下の上海城市歴史発展陳列館ではないだろうか。清朝と英国でアヘン禁輸を巡って争われたアヘン戦争(1839−42)と南京条約(1842)によって開放された上海の歴史を、蝋人形や当時の写真で再現している。最近、中、英、日語での案内も完備されたこともあり大変分かりやすい。何より、観客がまばらで静寂な空間を過ごせるのがいい。

 明珠塔の前の地下鉄に乗り一駅で上海の銀座と呼ばれる南京路に着く。にわか上海人として歩行者天国をぶらぶらした。ただ、お昼のカレーライスとCHINA風寿司の味は、一言ではいえない。

 午後、租界時代の高層石造り建築群が立ち並ぶ『外灘』をぬけて、外白渡橋(租界時代にかけられた鉄橋)をわたり旧租界地を歩いた。屋台の匂い、回りに響く上海語、そして古めかしい木造家屋、思いを寄せた懐かしい上海がそこにあったが、その背後には巨大ビル群が襲いかかっていた。砂漠のオアシスが吹き寄せる砂に飲み込まれてしまうように、いつかこの木造家屋も近代化という嵐に飲み込まれ消えてなくなるのだろうか。

 由緒ある上海大厦の喫茶で、ピアノを聞きながら紅茶とケーキをいただいた。今と昔を感じながら。

 一服して上海最後の夜を黄浦江遊覧で過ごす。船乗り場である『外灘』は、かってバンド(bund)の別称として知られる東洋港湾都市における海岸通りだった。『外灘』にならぶライトアップされた重厚な欧風建築物は、20世紀という歴史の幻想なのか?私には21世紀の国際城市という眩しい光を放っている上海不夜城のように感じられた。

(中内 新子)

   
遊游皖南取材班
左から:北村綾、北村正和、松岡杏奈、 北村太郎
中内新子、北村智江/前田正也(カメラ)
  上海外灘の夜景   変貌した上海浦東地区

       
租界時代の上海の競馬場        


ニーハオ安徽 2004年2月発行 第19号 P1 P2 P3 P4 P5