私にとってハイライトは重助の墓参りだった。ジョン万次郎という歴史的な人物を支えながら異国の土となった男の墓前に、故郷の人たちが集まった。
空港から我々のバスが先ず向かったのはモアナ・ルナ・ガーデン。「気になる樹」のコマーシャルでおなじみのハワイアン合歓の大木のある歴史的な公園。今回のテーマである国際「土佐人」のルーツである万次郎や宇佐の漁師たち4人、また奥村多喜衛などを手助けしたデーモン牧師一家の私立公園である。
記念の写真を撮った後、早速バスは北山を抜けてカネオヘの町にある重助の墓所に直行した。芝生から顔を出している御影石の墓碑面には「IN
MEMORY OF JUSUKE 1816‐1841 FIRST JAPANESE DECEDANT
TO DIE IN HAWAII」とある。
ハワイ大学名誉教授のロバート境先生、ビショップ博物館の篠遠夫妻、ジョセフ彦協会のジョセフ土本会長はじめ現地の歴史家の方々にも同行いただき、墓地管理の方々も参列。日本酒を捧げ、レイの花輪で飾った。
古文書が伝える重助の庭灯篭型の墓には「ハラ ベル チャン コン チョコ パ」と横文字で記載されている。「腹ぺこで苦労したよ」と私は読んだ。
新しい墓石は誰が建てたのだろう。翌日の日本文化センターで開催した記念講演でも、この点に篠遠和子先生もふれられたが、御影石の輝きだけでなく刻字の切れ具合にも、さしたる古さはない。
我々の知らない寅右衛門の子孫がいて、重助の供養をしているのだろうか。逝去の年として刻まれている1841年は、重助の3人兄弟が同郷の寅右衛門と万次郎ともども漂流した年である。その年の内に、漂着した無人島から救出されハワイに来た。
この海辺の土地開発をカメハメハ三世より許されて、土地の人々の好意に支えられながら病身の重助も4年あまりハワイ生活をした。
最後の夕べ、万次郎たちが上陸したアロハポートよりワイキキの沖合いに出た。今回初めて登頂したダイヤモンドヘッドをまわり、重助の墓所の前まで船が来たときであった。雨上がりの空が明るくなり、猛然と風波がたち「空浪」という風景がそこにあった。
「空浪」は、宇佐の真覚寺過去帳にある重助の戒名である。