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Winter No.27




協 会 創 立 1 0 周 年 記 念
国際「土佐人」のルーツを訪ねてハワイツアー


高知城そっくりのマキキ教会

 平成12年10月30日から11月4日まで、協会創立10周年記念行事の一環として、国際「土佐人」のルーツを訪ねるハワイツアーが実施されました。ハワイでは、日本の国際交流を切り開いたジョン万次郎や高知城を模した教会をつくり日系ハワイ移民の地位向上に貢献した奥村多喜衛の足跡をたどりながら日系人との交流を行いました。


マジックアイランドから
アラモアナビーチを望む




「奥村多喜衛の撒いた種」

森木 房恵


 国際線の上で30年余り働いて、さまざまな交流を見てきました。世界は今やどこでも直行便で行けるようになり、毎日15,000便が各国各都市を結んでいます。私たちは史上最大の人口移動時期に生き合わせ、大きなボーダーレスの激流の真っ只中にいるのを感じます。多様な外見や価値観との出会いをエンジョイできれば、こんなにおもしろい時代は今までなかったと言えます。 
 しかし、時代は私たちが作ったのではありません。大半は先人たちの撒いた種の実りをもらっているに過ぎません。はじめはそのことに気づきませんでした。
 ハワイで4半世紀も暮らしているうちに、高知城そっくりのマキキ教会を知り、そこに集う多様な人々を知り、そしてその創立者奥村多喜衛を知りました。100年も前に海を渡り、困難な時代を生きて彼の撒いた種がハワイの社会で実っているのを見て、とても感動しました。教会は勿論、ミッドパック高校もクワキニ病院もハワイの代表的な存在です。
 いつの間にか私は、ハワイと高知双方の人々に、もう一方を見て理解してもらいたいと思うようになりました。
 美良布の韮生太鼓を皮切りに多くの人々がマキキを訪ねました。高坂学園老人大学は黒田牧師の話でみんな15歳若返って帰って来ましたし、JAのシンデレラクラブ500人は大旋風を巻き起こして現地の日系新聞やラジオに取り上げられました。黒潮福祉看護専門学校と太平洋学園の若者たちの交流は毎年続いています。その他にも、高知の折り紙の先生がマキキに行って教えたり、フラダンスの先生が習いに行ったりしています。マキキからも教会の85周年ツアー以来、4回にわたって高知を訪ねて来てくれました。
 今回は国際交流協会の創立10周年ツアーで訪問して温かい歓迎を受けましたが、このようにお互いが出会い学び合いながら、視点の違いも距離の遠さも越えて好意と友情を深めてこられたことに感謝しています。こうした交流がさらに次の人々に平和の実りを渡してくれることでしょう。まさに一粒の麦、地に落ちて…



「重助の墓前にレイを捧げて」
永国 淳哉


 私にとってハイライトは重助の墓参りだった。ジョン万次郎という歴史的な人物を支えながら異国の土となった男の墓前に、故郷の人たちが集まった。
 空港から我々のバスが先ず向かったのはモアナ・ルナ・ガーデン。「気になる樹」のコマーシャルでおなじみのハワイアン合歓の大木のある歴史的な公園。今回のテーマである国際「土佐人」のルーツである万次郎や宇佐の漁師たち4人、また奥村多喜衛などを手助けしたデーモン牧師一家の私立公園である。
 記念の写真を撮った後、早速バスは北山を抜けてカネオヘの町にある重助の墓所に直行した。芝生から顔を出している御影石の墓碑面には「IN MEMORY OF JUSUKE 1816‐1841 FIRST JAPANESE DECEDANT TO DIE IN HAWAII」とある。
 ハワイ大学名誉教授のロバート境先生、ビショップ博物館の篠遠夫妻、ジョセフ彦協会のジョセフ土本会長はじめ現地の歴史家の方々にも同行いただき、墓地管理の方々も参列。日本酒を捧げ、レイの花輪で飾った。
 古文書が伝える重助の庭灯篭型の墓には「ハラ ベル チャン コン チョコ パ」と横文字で記載されている。「腹ぺこで苦労したよ」と私は読んだ。
 新しい墓石は誰が建てたのだろう。翌日の日本文化センターで開催した記念講演でも、この点に篠遠和子先生もふれられたが、御影石の輝きだけでなく刻字の切れ具合にも、さしたる古さはない。
 我々の知らない寅右衛門の子孫がいて、重助の供養をしているのだろうか。逝去の年として刻まれている1841年は、重助の3人兄弟が同郷の寅右衛門と万次郎ともども漂流した年である。その年の内に、漂着した無人島から救出されハワイに来た。
 この海辺の土地開発をカメハメハ三世より許されて、土地の人々の好意に支えられながら病身の重助も4年あまりハワイ生活をした。
 最後の夕べ、万次郎たちが上陸したアロハポートよりワイキキの沖合いに出た。今回初めて登頂したダイヤモンドヘッドをまわり、重助の墓所の前まで船が来たときであった。雨上がりの空が明るくなり、猛然と風波がたち「空浪」という風景がそこにあった。
 「空浪」は、宇佐の真覚寺過去帳にある重助の戒名である。



「ハワイ・オアフ島を旅して」
宇賀 豊


 11月2日早朝5時、モーニングコールで起きる。5時半朝食、6時20分ロビー集合。今日はハワイ島観光の予定であるが、ハワイ島は100年に1回あるかないかの豪雨で道路が寸断されて観光は不能とのこと。早速スケジュールを変更してオアフ島半周の旅に出ることとなる。
 昭和16年12月8日(現地時間12月7日)、日本海軍は真珠湾の奇襲攻撃に成功、多大の戦果をあげた事は衆知の事実である。また特殊潜航艇5艇が真珠湾口の防潜網をかいくぐり、湾内に粛々と侵入、戦果をあげたと報道された。
 しかるに今回の旅行で、そのうちの1艇が真珠湾から約50km離れたカネオヘ湾で機関の故障のため波打ち際に打ち上げられたとの事を知る。自走したとは考えられず、潜水艦に搭載されてあまり軍事施設のないカネオヘ湾へなぜ行ったのか疑問である。通信管制はされているが事前に綿密な計画が練られているはずだから、1隻のみが方向の違う所にノコノコ行く必要があったのか。そこで線香花火的に魚雷を2〜3本撃ったところで何も効果はない。米国民も一時は驚くだろうが、後が続かないので何だということになる。しかもこの時点で、捕虜第1号が出たのである。
 オアフ島に行って、ガイドの話で初めて知った事実である。戦後約60年近くたっても、まだまだ知らされない事実があるということだろうか。第二次大戦を戦った者にとって、疑問は疑問としてそっとしておく方がよいかもしれない。
 マキキ聖域教会での黒田牧師の感銘深い話は、いつまでも胸に残ることだろう。

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